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2013年8月25日

パシフィック・リム/Pacific Rimを観て、期待に応えるということについて考えた。



「Cream」といえば、60年代かのエリック・クラプトンがかつて在籍した、英国のブルースロックバンドである。

この3ピースバンドのライブは、各人のテクニックを顕示するかのような、長いソロパートが特徴的だ。オーディエンスもそれは心得ていて、クラプトンのソロがはじまるのを楽曲を聴きながら心待ちにしているのである。早くソロがこないかな、と。
逆に言うと、Creamのライブはそういうものだ、という理解がないと、20分を超えるソロパートの応酬にはまず耐えられない。
Creamの楽曲において、歌はあくまでソロを聴かせるための添え物でしかないのだ。


同じことが「怪獣映画」と呼ばれるものにも言えると思う。
ストーリーはアクションシーンという見せ場を作るための添え物であり、観客もそれを怪獣映画の文脈と心得た上で、「お約束」を楽しむのである。

昨日観た「パシフィック・リム」は、制作者が怪獣映画文化へのリスペクトを公言するだけあり、期待以上の破壊っぷりが鑑賞できる力作であった。
巨大生物による破壊行為とその防衛が「街」という人間の生活基盤において、いかに「盛大に」行われるかが、怪獣映画に向けられた大衆の期待。「パシフィック・リム」は、その期待に真正面から力任せに応えた作品といえる。

劇中におかしな日本語が飛び出したり、ストーリーに少々無理があるにも関わらず、世間の評判が概ね良好なのは、この高らかな「怪獣映画のジャンル表明とリスペクト」によるところが大きい。仮に、「人類はこの危機を乗り越えられるのか」などと、ストーリーに変な期待を向けたりしたら、「なんだよ。ただの怪獣映画じゃねぇか」という話になる。
あらかじめジャンルがはっきりさせることで、鑑賞者の期待をアクションシーンだけに向かせられるし、「リスペクトがあるもの」に人は寛大になるものだ。

もちろん、アクション自体がつまらなければ意味のない宣伝だし、事実、向けられた期待に応えられているからこその賞賛だと思う。
毎度、「これでもか」という映像を期待以上のものに作り上げるハリウッドのパワーは凄い。本当に凄いと思う。

怪獣映画という文脈は、ストーリーに目隠しすることができる。
これに味をしめたハリウッド勢は、今後もこの手の怪獣映画を量産するのではないだろうか。